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真冬の厳しい季節に、A君(30代)は駅の階段に一人で淋しそうに座っていました。凍てつくようなコンクリートの階段に座って震えていたA君に「てのはし」の夜回りのメンバーが声を掛けました。 そして、翌朝、「てのはし」の福祉班のメンバーが同行して、福祉事務所で保護を受けることが出来ました。 保護関連施設はどこもいっぱいということが幸いして、山谷のドヤの個室に入ることが出来ました。 A君は一見すると、「どこかボ-とした感じで、いつも不安そうで、ちょっと変な人」という印象でした。それでも話してみると、「とても素直でフアーとした」感じで、全く存在感のない人でした。どこか、純情な中学生のような雰囲気が漂う人でもありました。 精神遅滞があるようでしたが、話す内容は筋道が通っており、知的障害の領域までには行っていないようでもありました。むしろ、精神面で神経症的な問題があるように思えました。 さて、大変なことに、私はこのA君を何とかしなくてはならない役割が廻ってきて、すっかり頭を抱えてしまいました。 何故、大変かというと、A君はどっちにしても中途半端な存在で、ホームレスとして路上で逞しく生きて行く事は到底無理であり、そうかといって、この激しい競争社会で自立することなどもっと無理なように思えたからです。 更に私を悩ましたのは、彼の知的レベルも障害者として認定されるほどでもなく、また、精神障害として病名がつく程でもなく、要するに、すべてに中途半端なボーダーラインに位置し、福祉行政の狭間にすっぽりはまり込んでいたことでした。 もし、A君がちゃんとした家庭があり、家族に支えられて生きて行けるようであれば、この程度の障害はさして問題ではないかもしれません。しかし、A君は田舎の実家に居れなくなって、当てもなく東京に出てきた、帰る当のない路上の単身者でした。 保護をされているとはいえ、肉体的に健康な青年であれば、保護は一時的で、早く仕事を見つけて自立することが要求されてしまいます。 実際に、彼を担当したCWの処遇は、更正施設の空きを待って、そちらに移し、就労活動を開始させることでした。 私は、時間との競争と思い、すぐに、彼の成育歴の聞き取りに取り掛かりました。 そこで分かったことは、子供の頃から、のろいとか勉強が出来ないとかでいじめにあっており、特に対人恐怖が強く、人前に出られませんでした。 何かトラブルが生じると人と対立するのが怖くすぐに自分から身を引いてしまい、友達もいない淋しい生活を送っていました。その間、いくつもの深刻なトラウマを抱えるような過酷な体験を重ねたようです。 高校を出てから地元の工場で働きましたが、仕事がおそいとか、すぐに間違えるとかで、2年程でやめざる得なくなり、それ以来、13年間も引きこもりの生活を過ごしていました。しかし、引きこもり中は、近くに住むヤクザ系の親戚の暴力が酷くなって、遂に、命からがら逃げ出すように東京に出てきました。 13年間も引きこもりをしていた人が、ぽっと都会に出てきてもどうすることも出来ず、あっと間に、ホームレスになってしまいました。不幸を絵に描いたような悲惨な足取りでした。 しかし、驚いたことに、これほど惨めな人生を送りながらも、彼は素直で優しく、しかも困った人がいるとすぐに手を伸ばすような人でした。 私は自分が支援している人をもっと知るために、よく我が家に連れてきて一緒に食事をしてみます。 食事のマナーをみると、大体、子供の頃の躾がどうであったかすぐに分かるものですが、彼の礼儀の正しさは母親の躾にあるようでしたし、彼の優しさは、母親の愛情を十分受けて育ったせいだと見受けられました。 私は彼に対する応援の気持ちが段々に情熱に変わって行くのを感じていました。 私はA君をいろいろな角度から観察しながら、どうやって社会へ戻せるか悩みに悩みました。そこで出した結論が、まず、ダメ元でもいいから、知的障害者としての判定を受けることでした。 認定を受けて手帳が取得されれば、障害者として行政の手厚い処遇を受けることが出来ます。就労も障害者でも出来るような簡単な仕事に就いて生活が出来るようになります。 もし、手帳がダメであれば、次善の策として、精神障害の治療を受けて、彼の対人恐怖や不安障害を取り除き、少しでも、社会への適応能力を高めることしか出来ません。 もっとも、どれだけの効果があるかは分かりません。 A君の担当のCWに、知的障害者としての申請をお願いしたら、気持ちよく、了解してくれて、すぐに東京都心身障害者福祉センターに申し込みしてくれました。面接日は1ケ月後になりました。 面接には、本来、子供の頃の生育時の状況を説明出来る身内が立ち会うのが条件でしたが、彼のお母さんは重い病気で療養中で、立会いに東京まで出てくるのは不可能でした。 そこで、私が身内の代わりに立ち会うことをCWにお願いしたところ、ありがたいことに、私を信用して、すべて任せてくれるとのことでした。 私は1ケ月後に備えて、彼と何回も面接を重ね、また、田舎のご両親とは電話で何度か聞き取りをさせてもらいました。彼のお母さんは、純朴そのものの印象で、彼のほのぼのとした性格がよく理解出来る思いでした。 また、彼を連れて、障害者福祉の専門家を何人も訪ね、色々と相談にのってもらい、彼の障害のレベルと質をより正確に捉えることに努めました。 専門家はA君をみて、「知的障害にまで行くかな?」という意見が多かったので、私としても段々暗い気持ちになってしまいましたが、私の気持ちを支えてくれたのは、私の過去の経験でした。 私は、今までもこのように、障害者としての認定は、多分、難しいだろうと思えるケースを何度か経験していましたが、どういうわけか、「障害者センター」の判定ではいつも知的レベルの数字(IQ)は自分たちが予想したより、はるかに低い数字が出ていました。 ですから、私には不安の中にも、内心、一縷の望みがありました。 この一縷の望みを持って、私はせっせと「情報提供書」や「聞き取り票」を作成して行きました。また、そのような書類の内容を裏付ける子供の頃の成績表も、病身のお母さんが必死に探して下さって何とか20年も前の中学校の通信簿が入手出来ました。 「てのはし」のボランティア医師の「紹介状」も添付しました。 さて、万端整って、その日を迎えました。面接開始時間は9時半です。 緊張の塊のようなA君は既に上気した顔で私にぴったりくっ付いて離れません。 私はA君に「このテストは出来なければ出来なくたってかまわないから、気楽に行けばいいよ」と言っても、そもそも、このテストは何かという理解がよく出来ないA君には緊張が高まるばかりでした。 人前で話すとか、面接のようなことには病的な不安感を持っていますし、13年間も引きこもりをして、世事に疎くなったしまった彼の心を思うと無理もありません。 13年間も洞穴で生活していた人間が、急に明るい場所に出て来ても戸惑うばかりという感じでた。 9時半から1時間、担当者の面接がありました。私も同席して色々と意見を聞かれましたが、メインは勿論、A君です。私の提出した「情報提供書」や「聞き取り票」の内容を確かめるように、次々と質問をして行きました。 その後、「心理検査」ということで、担当者とA君が部屋に残り、IQのテストを受けました。 私は病院の廊下のようなベンチに座って終わるのを待っていました。 50分程度で、A君がぐったりして出てきて、私のいるベンチに倒れこむようにして座りこみました。 私が「お疲れさん。どうだったの?」と聞くと、彼は、「難しくて出来なかった。緊張して汗が出て来て体が震えてしまった」と答えました。 私が、「出来なかったら出来ないでいいんだよ」と慰めながら、内心では、「そうか、出来なかったか。これでチャンスはあるな」と喜んでいました。 次はいよいよ最終コースの精神科のドクターの面接になります。 しかし、彼の手には担当者から渡されたバインダーにはさまれた「愛の手帳取得申請書」という一枚の紙がありました。私が、「これ何?」と聞くと、「これに記入しておくように言われた」とのことでした。 私は思わず、「ヤッター」と内心で叫んでしまいました。この書類に記入するということは、早い話、「内定」のようだと思い、思わず胸にこみ上げる熱いものを感じてしまいました。 それからすぐに、精神科医の面接が始まり、そこには私も同席させてくれました。 いろいろ問診を行っている中で、彼の図形の読み取り能力がすぐれているとのことで、医師は、「私は2000人からの面接をしていますが、この問題が出来た人は初めてです、すごいですよ」と褒めていました。 それを聞いて、私は「もう、これでダメだ」とがっくり来てしまいました。その後、また、廊下でしばらく待たされていました。 私の心は、「一体どっちなんだろう」と期待と不安の交錯する中で、イライラしていました。 A君はというと、「一刻も早くこの場から消えてしまいたい」という雰囲気でした。 まもなく、最初の面接室から、「お入りください」と言われ、私と彼は恐る恐る入室しました。先ほど記入した申請書が机の上にありましたが、その書類には受付済みのような判子があるのが見えました。 担当者が、「A君は軽度の知的障害者としての判定が出ました」とさらっと言いました。 担当者にしてみれは、毎日、同じようなことをしているので、特別な感慨はないと思いますが、私にしてみればは、「A君の一生がかかっている」だけに、その担当者の声は「天の声」に聞こえました。 一通りの手続きが終わったあと、担当者(多分、臨床心理士)にいくつか質問をしてみました。「彼の知的レベルは結構高いように思われたのですが、実際はどうなんでしょうか?」と聞くと、「彼の能力はすごいバラツキが大きいのですが、平均すると軽度の領域になりま す」と担当者はいろいろと説明してくださいました。 また、「彼がもう少し、リラックスできれば、少しはよかったかもしれませんが、何ともいえないですね」というようなことも仰いました。 本来的に言えば、障害者として認定されることは、大いなる不幸であるべきですが、しかし、人間はこの世に生を受けた限り、寿命までは生きていかなくてはなりません。 障害があって生きて行くことが困難な人に対し、少しでも困難を取り去り、生き易くするために国が援助の手を差し伸べる手段が「障害者手帳」です。であるならば、「手帳」の取得は大いなる福音であり、素直に喜べばいいと思います。 さ て、手帳の取得が確実になったA君の今後の生活設計はどうなるについてお話をして、この「福祉の窓」を閉めたいと思います。 まず、1ケ月後に「愛の手帳」が送られてきます。今までは生活福祉課から、生活保護を受けていましたが、これからは、知的障害者福祉課の制度の利用も可能になります。 この制度を利用すれば、障害者向けの就労支援が受けられ、その人の能力にあった仕事に従事することが出来ます。生活する上で、収入が足りない部分は生活保護が継続されている限り援助してくれます。 今までのように、障害というハンディを持ちながら、健常者の間に入って、馬鹿にされたり、酷い競争に晒されることなく、自分の背丈にあった優しい環境の中で生活をして行く事が出来るようになります。 とはいえ、精神遅滞や虐待などの心的外傷を引きずりながら、13年間も引きこもり、社会から断絶状態にあったA君が簡単に幸せな人生を得られるとは思えません。 彼に対し、時間をかけて、丁寧に、まるで壊れ物を扱うような注意深さでこそ、初めて、新たなる人生の可能性が出てくると思います。その為には、「愛の手帳」は魔法のような力を私に与えてくれます。 私の力は微力ですが、愛の手帳という武器さえあれば、その魔法の力を縦横に駆使して行けば、何とか彼を幸せに出来るような気がします。 知的障害者の手帳を、東京都では、「愛の手帳」と名づけていますが、本当にいい名前だと思います。他県では「療育手帳」と呼ぶようですが、味も素っ気もありません。 さて、手帳が取得出来たので、次のステップとして、彼の心の病の治療に取り掛かる必要があると思います。知的障害者は健常者に比してストレスに対する耐性が極極端に弱く、健常者に取って、取るに足らないことでも、知的障害者にとっては処理しきれないほどの大きな刺激になります。 更に、知的障害でも、軽度の場合は、社会生活に対する認識がある程度出来ているだけに、それに対応できない自分を意識して、悔しいとか劣等感などを持ちやすいようです。 それだけに、幼少の頃のいじめや虐待などは、心の深い傷として、対人恐怖や不安感、そして、社会への怯えなどを引き起こし、自分自身をダメな人間としての思い込みを深め、出来ることも出来ないような自信喪失の状態に陥ってしまいます。 私の考えでは、彼に必要なことは、精神科医の治療を受けながら、少しずつ、ボランティアでもいいし、或いは、障害者就労の支援を受けて、超簡単な仕事から始めることだと思います。 もっとも、そんな彼の心の病を癒して下さるような精神科医に辿り着けるかが、実は大問題でもあります。 生活保護を受けている身であれば、医師選びなども出来ませんし、彼に一番必要と思える心理療法なども、保険診療が効きませんから、当然、保護受給者には適用されません。 しかしながら、愛の手帳という大きなハードルを越えられたA君ですから、きっと、次のハードルも越えられるような気がします。 最後に、A君が「愛の手帳」を取得するまでに、多くの人の暖かい協力がありましたことに、心よりの感謝とお礼を申し上げます。 福祉班 N
by tenohasi
| 2009-06-16 14:43
| 福祉の窓
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